昨日なんとなく家にあった学びの復権を読みました。
”学びの復権”とは僕の高校で毎年配られる先生から生徒へのメッセージ集のようなものです。
今日はその中からひとつ紹介したいと思います。
尚これを英訳するのはとても難しいので今日の英訳はお休みにします。
(以下、学びの復権より引用。なるべく誤字のないように頑張ります。あったらすみません。)
「勉強して何になるのですか」への返信 教頭 名越 和範
それはやってみなければ分からない。初めから分かっている人などいないと思う。また同じことを勉強してもその結果は人さまざまだ。
いきなり突き放すようなことを書いてしまったが、そもそも「なぜ」という疑問は、自分の思っていることと現実が食い違っているように感じられるところに発せられる。ということは、一致している(と感じられる)場合は出てこないことばなのであって、現実をそのまま受け容れる人や自分の頭でものを考えようとしない人からは絶対に出てこないことばである。つまり、「勉強して何になるのか」という問いの裏には「勉強したらよいことが何かあるはずだ」という推論があり、そしてその「よいことの実感が今得られない」という渇きがあるのだ。ただ、激烈な競争に明け暮れている全国の受験生にとってそのような疑問が浮かぶことは危険である。そんなことを考えていれば周りに置いていかれてしまうからだ。しかし浮かばないことが確実に良いこととも思えない。「よいことの実感」の内容によっては、本人の将来にも周囲にも不幸をもたらす危険性だってあるからだ。
人生も似たようなものだ。どうせ最後には死ぬに決まった人生に何の目的があるか、初めから決められた答えなどないし、まして戦争の時代に生まれたり、言論の自由が制限される国に生まれたり、金持ちでないあるいは不仲な親のもとに生まれたりしたら、「生きて何になるか」と自問せざるを得ないだろう。一方あまりにも恵まれすぎて生まれたための不幸せだってある。十分な自由を与えられたことで、逆にどうしていいかなかなか決められない場合もあるのだ。いつでもどこでも、人間は不条理を抱えて生きている。問題は目的を人から与えてもらうか、自分から探しだすかである。
好きなことをしていて「それで何になるのか」と自問する人は見たことも聞いたこともない。だから探しだすべきは「勉強して何になるか」の答えではなく、「自分は何をしたいか」の答えである。勉強はそれを見つける方法の一つでもあり、実現する手段の一つでもあるのだ。
豊かさを実現した国ではほぼ例外なく教育問題が起っている。経済発展の途上にある国では問題がないのではなく、たぶん「勉強して何になる」という根源的な問いかけに対してそれとは直接関係のない、目に見える生活保障が用意されているからだろう。「勉強すればお金持ちになれる」「勉強すれば人から尊敬される地位につくことができる」等々。それは一定の経済発展がなされた後では答えにならない答えになってしまう性質のものではないか。事実日本ではそうなってしまったのである。30年ぐらい前までなら、イヤであろうが何だろうが我慢してやりさえすれば、結果として一定の収入を得たり社会的地位につくことができたりしたかもしれないが、今はそうとも限らない。
では昔のほうが幸せだったのだろうか。一定の収入を得、社会的地位につくことは、いってみれば人生の「手段」であって「目的」ではない。それを昔の人は錯覚したままでもそのことに気づかずに済ますことができただけの話である。今となって、その矛盾は社会のいたるところにころがっている。君たちはそれを毎日見ているから疑問がわいてくるのではないだろうか。そういう意味では鋭い疑問なのかもしれない。でもそれを自分がしないことやできないことへの理由にしてはいないだろうか。果たしてそれでよいのだろうか。
君たちが幼いころ言葉を覚え文字を知り、算数のたし算ひき算ができるようになった時のことを思い出してもらいたい。それらが身につくことは無条件にうれしいことではなかっただろうか。一つひとつのことが覚えられ、できるようになっていった時は親も子も同じように感動したのではないか。それが、学校という場で成績がつけられ序列化されることを通じて、学ぶことの本来のよろこびと、よい成績を納めるよろこびとが混同されるようになってしまったのではないだろうか。そう、君たちは「学歴競争社会」へ足を踏み込んでしまったのだ。結果が全てに感じられる社会ではよほど脳天気な人でもないかぎり、上にいても下にいても、それぞれに苦悩がつきまとうものだ。ではどうしたらそのような社会から精神的に抜け出せるのだろうか。
競争は悪者扱いされがちだが、ゲームにおいてもスポーツにおいても必要不可欠なものである。勝たなくてもいいやと思って練習する人はいないし、ゲームで相手を負かそうという気もなくやっている人はゲームをぶちこわす人でしかない。競争にはそれによって自分や社会を向上させ面白くする部分が確かにある。しかし勝利至上主義になってしまうと弊害も多い。競争にはそのように両刃の剣の要素があるのだ。大切なことはゲームを降りてしまうことではなく、卑怯な手を使って勝つことでもなく、正々堂々とゲームに参加し続けることである。
勉強することを競争と考えずに切磋琢磨ととらえよう。人と比べるよりも過去の自分と比べよう。そして多くを知っているだけで満足せずそれらを人生観や世界観にまで高めよう。自分を知り、社会を知り、そこから自分の志を探しだそう。うまくいくとそれは「使命」といえるものになるかもしれない。誰もが何か能力をもっている。それを見つけ出しうまく生かしていくことができたら、勉強の楽しみを発見し人生を豊かにすることになるのではないだろうか。勉強して何になるかの解答は、あらかじめ決まったものではなく、君たちが自分自身をごまかさず勉強と向かい合って作り上げていくものなのだ。
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